奮戦記
【07.07.16】日本共産党が中越沖地震対策本部を設置。秋田、山形で街頭から訴え
今日午前、中越沖で震度6強の地震が発生しました。
気象庁によると、震源の深さは17キロ、マグニチュードは6・8でした。家屋の下敷きになるなどして7人が死亡し、報道によると767人が病院で手当てを受けました。また、東京電力柏崎刈羽原発3号機の変圧器から出火しましたが、正午過ぎに鎮火しました。被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。
まだ大きな余震が続いておりますので、十分な注意が必要です。
地震発生の時、私は、羽田から秋田に向かう飛行機のなかでした。10時35分に飛行機を降りてから地震情報に接し、たいへん驚きました。
日本共産党は、地震発生直後に市田忠義書記局長を本部長とする中越沖地震対策本部をたちあげました。副本部長は、緒方靖夫副委員長と井上さとし参議院議員です。
ただちに、緒方靖夫党副委員長と吉川春子参議院議員が現地に入ることになりました。
17日には、井上哲士参院議員が長岡市を訪問して被災者のお見舞い・激励と現地調査、18日には、市田忠義書記局長が柏崎市、新潟県庁などを訪問し、被災者のお見舞い・激励と現地調査をします。
現地の方々の声をおききして政府に申し入れをおこなうとともに、被災者救済に党としても全力をあげます。
秋田市と山形市で街頭から訴えました
秋田市では、秋田駅前で参議院選挙区候補とご一緒に街頭から訴えました。
私は、北海道の小樽商科大学を卒業しました。その大学の先輩に小林多喜二という有名なプロレタリア作家がいます。多喜二が生まれたのは、この秋田です。
小林多喜二は、秋田県から北海道の小樽に移り、小樽商科大学で学び銀行で働きながら小説を書くようになりました。
その後、東京に出て日本共産党の活動をしていたところ、当時の特高警察に捕まり築地警察署で拷問を受け、その日のうちに命を奪われました。
三浦綾子さんが、小説『母』を書いています。
その母は、多喜二のお母さんです。知らせをうけたお母さんが警察署にいくと、変わり果てた姿の息子がいました。その遺体に抱きついて、「あんちゃん、もう一度、みんなの前で立ち上がってみろ」と声をかけました。しかし、二度と立ち上がることができませんでした。
あの暗黒時代から、日本共産党の先輩たちは、侵略戦争に体を張って反対を貫いたのです。
いま、歴史の歯車が、ぎりぎりと後ろ向きに回されるような時代となっています。こんなときこそ、私たちが先輩の遺志を受け継いで、頑張らなければなりません。
秋田からは秋田新幹線で仙台に向かい、仙台から高速バスで山形に向かいました。
山形市では、選挙区候補とご一緒に市内の商店街で訴えました。
山形県といえば、私が、はじめて参議院に比例代表選挙が導入されたとき、25番目の候補者として、初めて第一声をおこなったところです。いまから25年前、候補者としての出発点が山形だったのです。
あのとき、私は37歳でした。山形選挙区の候補は、何度も選挙をたたかったベテランで、私のつたない演説を聞いて「まぁまぁだ。あんたは、きっと演説がうまくなるよ」と、あたたかく励ましていただきました。そのことを、昨日のように覚えています。
今日も、秋田、山形の関係者の皆さんには、たいへんお世話になりました。心から感謝申し上げます。
★★★!!